ウェルダンな日々

 

 

 

ちょっとした言葉の行き違いや

捉え方の相違により

要らぬイザコザが生まれるのは 

ままあることだ。

 

 

 

それが膨らみ別れの切っ掛けや

修復の効かぬ事態にまで

発展することも、

そう珍しいことではない。

 

 

 

 

上司や部下との軋轢が

ここ最近になり重大化し

退職に対する感情が最大化している。

 

 

 

「物のいい方が曖昧だったのか?」

「配慮に欠けていたのでは?」

「もっと上手く立ち回れたのでは?」

問題の根本は自分にあるのだろう、

そう反省している部分も大きい。

 

 

 

 

反面、自分が持っている倫理観、

その最低限のラインを余裕で

割ってくるような相手に対して

歩み寄りを図る価値があるのか?

理解をし妥協点を締結する意味はあるのか?

 

 

 

 

利益と安定、信念と不安の天秤が揺れている。

サラリーマンであれば誰しもが

経験するような悩みであろう。

 

 

 

そんな鬱々とした毎日を過ごしていると

思わず口ずさんでしまう歌がある。

「泳げ!たい焼き君」だ。

やはり子門真人は天才であった。

 

 

 

 

児童向けの歌と見せかけて

サラリーマンの悲哀を謳ったと

まことしやかに囁かれるこの曲。

社畜の中で共感しない者はいないだろ。

 

 

 

「毎日、毎日、僕らは鉄板の~」

気が付けば口ずさんでしまうのは良いが

TPOには気を付けなければいけない。

 

 

 

通勤中の車中であれば問題ないが

職場内やスーパーの買い物中に

いい年こいたオッサンがコブシを効かせ

歌いだしたら話は違ってくる。

ちょっとしたお薬案件に発展しかねない。

 

 

 

 

他にも口ずさんだらOUTな場面は

多々あるがこの世で一番、この歌を

口ずさんではいけない場所がある。

そう、帝愛本社だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕らは鉄板の上で焼かれて

         嫌になっちゃうよ」

本来であれば理不尽な叱責や嫌味に

対する比喩表現として捉えるべき歌詞も

そのままの意味で捉えられかねない。

 

 

 

「嫌になっちゃうよ、

     どころじゃ済まねーんだよ!」

 

黒服モブの突っ込み幻聴が聞こえてくる。

絶対に上司の前では歌えないことだろう。

 

 

 

もしかしたら当のご本人は自嘲気味に

「(目が)泳げ!トネガワ君」

替え歌を口ずさんでいるかもしれないが。

 

利根川だけに泳げってか~?

   ハッハッハ・・・ハ~・・・・」

 

疲れた笑いになんと返してよいのか

ざわつく黒服達。ざわ、ざわ、ざわ、ざわ。

「たい焼き君」のメロディーが

いつしか「さとうきび畑」へと変わる

森山良子オン・ステージ in 帝愛。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり受け手側の言葉の取り方、

それ如何によっては

人を傷つけたり不快な気持ちにさせて

しまうことも多々ある、そう実感した。

さとうきびのように齧っても甘くない、

砂を噛むような例え話、いや妄想を通じて。

 

 

 

 

そう考えると問題の根本は

僕が無神経なダメ人間なだけなんだろう、

自覚させられ落ち込む、そんな夜更け。

夜風は冷たく、周りの態度も冷たい。

 

 

でも、焼き土下座だけはどうか

ご勘弁をしてはいただけないだろうか?

表皮は温まろうが

心までは暖まらないだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

揃いの黒スーツにグラサン、

多分、支給品だろうから

帝愛って福利厚生は良さそうだよな~

そんな妄想に耽りながら

コロナで激減した求人情報を

溜息をつきながら眺めている、そんな毎日。

 

 

 

 

こんな世迷言ばかりに時間を費やす

怠惰な僕も利根川さん宜しく

死後は地獄の業火で焼かれることだろう。

せめてミディアム・レアくらいの

焼き加減でお願いしたいものだ、

出来れば赤ワインを一杯添えて。

 

 

 

 

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PPAP ~Petty Pardon, Apple Pie~

 

 

 

その果汁を惜しげもなくガブ飲みし、

甘く煮締めた果肉をパイに包み、

シナモン風味に美味しく焼き上げ頬張る。

 

 

 

たった一齧りで楽園を追放される、

そんな果実を此ようゾンザイに扱う

その罪はどれだけの罰を受ければ

赦されるのであろうか?

ドストエフスキーにだって

想像すら出来やしないだろう。

 

 

 

そりゃそうだ、

彼のいた時代には存在しないから。

アップル社製のiPhoneは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何の前触れもなく充電が出来なくなった。

バッテリー残量は僅か9%、風前の灯。

結構な長い間、使っていたものだから

仕方がないと思いつつも

一つだけ懸念すべきことがある。

 

 

 

ズボラな性格がここにきて災いする。

購入して以来、

一度もOSのアップデートをしていない。

さらにバックアップすらとったことがない。

 

 

 

つまりこのままの状態で機種変更をすれば

交友関係のメイン連絡ツール、

LINEの引継ぎが出来ないという訳だ。

 

 

 

ここ数年は連絡先交換といえばLINE、

電話番号やメアドの交換なんて

とんとご無沙汰。

極々親しい人物としかしていない。

 

 

 

LINEの引継ぎが出来ないということは

自動的に音信不通になってしまい

交友が途絶えてしまう関係が多数ある、

そういうことなのだ。

 

 

 

繋がりが途絶えるということは

その分だけ自分の世界が縮小する

ことを意味する。

 

 

 

成程、禁断の果実に関する罰は

やはり楽園からの追放であったか。

楽園と呼ぶにふさわしい

交友関係であったかどうかは別として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罰を受けるということは

悪いことばかりではない。

必ずセットになっているものだ、

「罰」と「赦し」は。

 

 

 

交友関係の断絶という今回の罰に対して

僕が得た恩赦は何だったのだろうか?

 

 

 

きっとそれは「解放」だったのだろう。

しがらみからの解放。

 

 

 

職場の同僚や友人づての繋がり、

さして興味を惹かれなくても

連絡先を交換してしまった面々。

 

付き合っていく内に価値観の相違から

距離を置きたくなっていた繋がり。

 

いい加減に切りたくなっていた関係を

自動的に清算出来たわけだ。

 

 

 

連絡先の交換だけで終わったものの、

結びつきを深くしていきたかった

関係も中にはあったが、

そういった「自分の中の未練からの解放」

これも「赦し」の一つと呼べるのだろう。

 

 

 

 

交友関係の未来を失う代償として、

昼夜問わず無遠慮に届く

煩わしいメッセージと

しがらみと呼べる関係からの解放を得た。

 

 

 

楽園からの「追放」と「解放」

それが今回の「罰」と「赦し」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目覚まし代わりにも使っていた為、

急いで機種変更へとショップに向かう。

置いてある最新機種の値段に二の足を踏み、

加入してある保険を使うことにした。

現在使っている機種が故障した場合、

割安で購入できるというやつだ。

 

 

 

 

「それでは交換前に故障の確認として

 お店の充電器で充電出来ないか

 確認させて頂いて宜しいですか?」

 

「はい、お願いします。」

 

「では少々、お待ち下さい。」

 

 

・・・・・・5分後・・・・・・

 

 

「大変お待たせていたしました。お客様、

 お店のもので充電してみましたら

 問題なく充電出来ました。どうやら

 接続部にこれが詰まっていたのが

 原因みたいでした。」

 

 

白い紙の上には見覚えのある物が。

そりゃそうだ、昨日見たばっかりだ。

正確には「食べた」か。

アップルパイの皮、パイ生地のカス。

 

 

どうやら僕が受けた罰は

食いしん坊キャラのレッテルを

張られるという赤っ恥をかくこと、

代償として得た赦しは

機種変更に掛かる費用を節約できたこと、

そんな感じみたいだ。

 

 

交友関係の多寡に関わらず

小さな世界の住人であることを自覚する。

そんな猛暑の日、暑中見舞い代わりに一筆。

こんな僕でもそれなりに元気です。

 

 

元気です、元気なのか?、元気ですかー!?

1、2、3、・・・・・8くらいが欲しいの、

ダー!

 

 

 

 

P.S 

ドストエフスキーって

ドスト・F・スキーって表記すれば

何だか藤子・F・不二雄みたいだね。

お返事は要りません。

 

罵倒も嘲笑も要りません。

僕が欲しいのは愛だけです。

それかiPhone、出来れば11が。

 

 

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写真卒業

 

 

 

写真は嫌いだ。

正確に言えば記念写真。

 

 

 

 

 

いつの頃からだろう?

進んで撮り役を買って出て

自然と写らない様に振る舞うように。

 

 

 

「一緒に撮ろうよ!」

そんなお誘いも

ICPOから追われる身だからちょっと」

 なんて戯言にて遠慮する。

 

 

 

一方、写真の素晴らしさも解っている。

真実を切り取る報道写真に衝撃を

美しい風景写真に感銘を

心動かされる経験もしてきた。

 

 

 

色彩のみならず、香りや音までも

再生されるような一枚、

そんな力が写真にはあることも

知っている。

 

 

 

しかしながら

被写体がレンズを意識した瞬間、

何らかの装飾が加えられるのも事実だ。

 

 

 

その場に則したそれっぽい空気感、

心の内を隠すように作られた笑顔、

楽し気な雰囲気で撮られなければ

いけない様な義務感に苛まれる。

 

 

 

そういったことが面倒くさく感じる。

また、歳を重ねるごとに

作り物への興味が薄れていき、

例え、一握りでもいい、

良いものでも悪いものでもいい、

本物だけを渇望するようになる。

 

 

 

 

いつしか記念写真にとって代わり

スナップショットばかりが並ぶアルバム。

見映えが悪かろうと、こっちの方が

僕は好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

送り盆、仏壇の遺影に掌を合わす。

柔らかな表情で笑っている。

 

 

 

優しい声、手の温もり、楽しかった日々。

嫌な出来事だってあったはずなのに

思い出されるのは暖かな記憶だけ。

胸の奥に痛みと喪失感が蘇る。

 

 

 

 だから写真は嫌いなんだ。

 

 

 

 

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