Here Today

 

 

 

暇な時や疲れ切っている時はいつだって
頭の中で替え歌を作ろうとしている自分がいる。
理由は知らない、というよりあったとしても
とてもじゃないがマトモな理由であるはずもない、
従って意識の外に放り投げているのだろう。
生物が持つ自己保身機能はまったくもって素晴らしい。

 

 

 

今日は三国志をテーマとして替え歌を作ろうとしていた。


「魏・呉・蜀!愛で空が・・・・」
ダメだ、リズムは悪くないが出オチで次が作れない。


「どれだけ魏を愛しても~」
・・・・勢いだけだな、他のフレーズが作れない。
天下三分の計に掛けたものが作りたかったのに。

 

 

 

数時間、試行錯誤しようとするも一向に進まずギブ。
そもそも論として三国志にそれ程、興味も知識もない。
それなのに何故に作ろうと試みたのかは不明。
シャーロックだってコナンにだってこの謎は解けない。

 


思い当たるキッカケがあるとすれば
「1/3の純情」を久しぶりに聞いて
ふと思い立ったというとこだろうか?

 


この曲のタイトルセンスは素晴らしいと感じる。
恋愛をテーマにした楽曲に分数が醸し出す切なさが
妙にマッチしている。

 


「分数」にはどことなく切なさを覚えてしまう。
これが共感覚というものなのか?
以前、狂感覚の持ち主であることは
この記事に記したことがある。

 

massugu.hatenadiary.com

 

 

感覚の問題ではなく
分数が意味する分割、欠損というものが
論理的連想により切ないという思考に至るのか?
少し検証してみることにしようと思う、暇だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


・「1/3の純情」

残りの2/3は下心か?なんて下世話なネタが
当時流行ったものだが、それは誤った解釈だ。
曲中では「1/3も伝わらない」と表現されている、
つまりは「愛全体の1/3未満の量」しか伝わらない、
そう唄っているだけだ、残りも愛であることは変わりない。

 

ここで考慮すべきは何故に1/3という
数値が選択されたか、その1点に尽きる。
推測ではあるが数字が人に与える説得力や程度を
客観的指標により分かりやすくする為に
この分数が使われたのだろう。

 

その半分すら気持ちが伝わらないという
切なさの表現に適していたのが1/3という数字。

 

まあ、実際のところはゴロだとか直感的に
1/3という数字を使っただけだろうけど。

 

この例においては共感覚に起因するというよりは
論理的な説明の方があてはまりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・「5/8チップス」

サイズからつけられたネーミングであろう。
通常サイズの5/8。ここまでは論理の範疇。
しかし、通常のサイズとはどのくらいの大きさか?
チップスのサイズは平均こそあれど、
芋の形状により様々だ(チップスタータイプ除く)。
別に5/7や6/8でいいのではないだろうか?

 

ここに開発者の意図が隠されている気がしてならない。

「人生においてはどうあっても割り切れない気持ち
 になる時がある。そんな時はこれを食べて、
 その心を少しでも癒してほしい。
 そうすれば悲しい気持ちより
 楽しい気持ちの方が少しだけ上回るから。」

そんな願いが込められているのではないか?

 

 

・・・・切なさの話題は何処に行った?

 

本日2度目のそもそも論として
チップスに切なさを感じたことは未だかつてない。
単に思いついた分数ネーミングに飛びつき、
こじつけただけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


上記の例が示した検証結果によると
(切なさについて論じたのは1例だけだが)
分数がもたらす切なさの感情は
残念ながら共感覚に起因するというよりは
論理的連想により生じると結論付けることが出来よう。

 


しかしながら、今日この時に限って言えば
分数は感覚的に切なさをもたらすと言い切れる。
言うなれば今日だけの感覚、「今日感覚」だが。

 


何故なら、何の生産性もないのにも関わらず、
分数を題材にしたテーマを検索し
下らない文章作成に興じる、
たまの休みをそんな事に時間を費やしている
その後ろ姿は「切ない」の一言に尽きるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛しさ」も「心強さ」も持ってはいない。
あるのは残りの1/3、「切なさ」だけ。
取り戻す愛さえないよ、マイハー!
あべし。

 

 

 

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