国民食狂騒曲 第一楽章

おかしい。どう考えてもおかしい。

何らかの陰謀に巻き込まれたに違いない。

昔、FBIに協力した際の情報が

結社の奴らにばれたのか?

これはモルダー兄さんやスカリー姐さんに

相談しなきゃダメなヤツだな。

 

 

 

あっ大丈夫ですよ色々解って言ってますから。

先生、お薬は要りません。

おかしいのは私の頭の方だってことは

重々承知しております。I understand.

 

 

 

 

休み明けでレターケースを開けると

目に飛び込んできたのは未処理ファイルの山。

その数はXファイルどころではすみません。

そりゃラッツばりに現実からrun awayしたくもなる。

 

 

 

「ワタシ ミテナイ、シゴト ナイナイ」

頭の中の住人、

もう一人の私ことチェンさんが

優しくも欺瞞に満ちた瞳を煌かせながらそっと囁く。

周囲を確認し、そっとレターケースを閉じる。

 

 

 

誘惑にはとことん白旗を挙げる主義の私。

BIGINだって「負ける優しさ」があるって唄ってた、

それが大人に変わっていくことって言ってたもん。

 

 

 

名曲を180°自分の都合の良い方向に曲解しながら

定時までのルーチンワークを淡々とこなし、

終業時刻と同時にタイムカードを切り退社。 

 

 

 

 

帰宅中の車内、

電光石火の速さで襲ってくる自己嫌悪。

こんな時はあれだな、カレーにしよう。

落ち込んだ時にはカレーだって

「すみっこの空さん」も言ってたし。

カレーは凄いんだから。

 

 

 

 

そう、カレーは凄いのだ。

言わずとしれた国民食というポジションに止まらず、

名だたるアーティストにもリスペクトされている。

くるりスピッツ真島昌利、etc.....

彼らに楽曲の題材として取り上げられている。

 

 

 

中でも真島昌利

「カレーライスにゃかなわない」は

素晴らしいクリスマスソングでもあるので、

今年のクリスマスの選曲に悩んでいるのなら是非。

 

 

 

 

どうも話が脱線してしまうな。

脱線するのは俺の人生設計だけで十分だっつーの。

早くトーマスにSOS信号を送らなきゃ。

 

 

 

話を戻すことにしよう、そうそうカレーの話。

「あなたの好きな食べ物は何ですか?」

というアンケートをとれば

必ず表彰台に登ることは周知の事実。

 

 

 

子供の頃を思い出してみても

オカワリキングの栄冠を欲しいまま

独占してきたカレー。いったい全体、

彼のどこにそんな魅力があるのだろうか?

カレーだけに。

 

 

 

その答えを解く鍵はアンケート結果の中にある。

上位に登るのはあくまで「カレー」なのである。

カツカレーでもなくハンバーグカレー、

キーマカレースープカレーでもなく

「カレー」なのだ。

 

 

 

この結果は

< 美味しい物+美味しい物=最強 >

三月のライオン理論に反する結果となっている。

ここからが本日の講義の始まりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メダリストである「カレー」と

予選敗退者であるカレー+αの違いとは?

歴史が育んできた認知度の差であるのか?

答えはNOである。

 

 

 

両者の違いは「余地」の差なのだ。

+αカレーには既に主張の強いメイン具材が

幅を利かせていて他者が入り込む隙間は

殆ど残されていない。

 

 

 

一方、スタンダードはカレーには

「何か乗せようかな?」など

個々人が己の想像力を巡らせ、

自分の嗜好に合う様、自由にカスタマイズ

出来る余地を十二分に有している。

 

 

 

 

両者の違いである「余地」とは

「事象Aの中において個人の嗜好や理想を

 事象A自身に反映させることが可能な領域」

と言い換えることが出来る。

 

 

 

また、長年の研究成果として

「個人の理想とする状態に事象Aを

 変化させることを可能とする

 余地の存在は事象A自体の価値を高める」

という結論を導き出すことに成功した。

 

 

 

これを「余地理論」と名付けるとしよう。

 

 

 

教科書的な説明だけでは伝わりにくいであろう。

一つ例を挙げ、余地理論について説明してみよう。

 

 

 

「物語」という一つの事象(情報)に対し現存する

3つの伝達媒体について考えてみよう。

「本」「ラジオ」「TV」

 

 

 

3つの例における構成要素を挙げてみると

 本:文字情報

ラジオ:文字情報、音声情報

TV:文字情報、音声情報、映像情報

上記の様になる。

 

 

 

含まれる情報量を考えるとTVが最上位となり

伝達媒体として優れていると言える。

しかし、未だに本やラジオも支持を受け

淘汰されず物語の伝達媒体として活躍している。

 

 

一体何故であろうか?

ここで余地理論の登場である。

 

 

 

最下位媒体である本において

物語を読み進める時、

人は無意識的に登場人物の声や風貌を、

自分好みに脳内で変換しているのだ。

その結果として、登場人物に対し

より強い魅力や愛着を感じるに至る。

 

 

 

背景や場面描写においても同様である。

情報量の少なさ故、

「行間を読む」行為が自然と行われ細部に渡り

自分好みのシーンが脳内に再生されるのだ。

結果として付加価値が加わり

物語の面白さや魅力は100%以上となる。

 

 

 

一方、最上位であるTVに関して言えば

登場人物の風貌、声、背景や場面、

ストーリーの進行速度に渡るまで

すべての情報が受け手に与えられてしまい、

個々人の嗜好に合わせたカスタマイズが

出来うる余地が存在しない。

 

 

 

その結果として

物語の価値は100%を上回ることはない、

むしろ価値を下げてしまうケースさえあるのだ。

 

 

 

こんな経験はないだろうか?

好きな漫画がアニメ化され鑑賞する。

「なんかこの声じゃないんだけど。」

と思ったことがあるはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アインシュタイン曰く

「想像力は世界をも包み込む」

 

 

人々は己の想像力によって

自分の人生を鮮やかにするものだ。

もし想像力に制限がかかってしまえば、

たちまち人生は色褪せたものになってしまう。

 

 

 

想像力という翼を

存分に羽ばたかせることが出来る余地の

重要性についてご理解頂けただろうか?

 

 

 

最後に私事ではありますが

おかしなことに長い間、

愛車のナビシートが誰かの指定席ではなく

空席と化しているもので、

その余地だけは早く埋めたいものである。

想像力が妄想力に変わるその前に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに脳直全開で文章を書いたら

気持ちよさと同時に酷い頭痛に

見舞われたので今日の講義はここで終了。

 

 

 

 

  

 

にほんブログ村 小説ブログ ショートショートへ
にほんブログ村

にほんブログ村 その他日記ブログ たわごとへ
にほんブログ村