80点の夕暮れ

 

 

 

薄々、いや、明確にお判り頂いているだろう。

僕は自他共に認める適当男。

心の師匠を高田純二先生と仰ぐ。

口癖だって適当かつ無責任なものだ。





「大丈夫、人生の8割は大丈夫で出来てるから」




僕が心配されて声をかけて貰う時も

人から悩み事を相談された時も

大抵の場合、このフレーズで返してしまう。

悪気は無い、深意もない、適当なだけなのだ。





大体にして悩むことは悪い事じゃない。

むしろ幸せなことなのだ。

「悩めるってことは選択肢があるって事」

尊敬していた人からかけて貰った言葉だ。





そんな幸せな状況であるはずなのに

深刻なトーンで返しても事態が好転していく

とは思えない。成るように成るさ、

そんなスナック感覚のノリが相応しいはず。





だからなのか、一見ふざけた様に聞こえる

こんな返しが案外と好評を博す時がある。

笑いながら「あとの2割は?」なんて

幾分和らいだ表情で聞き返されたりと。





「何か楽になったよ、ありがと。」

こうまで言って貰え、罰が悪くなり

「なんで?適当な返しだったのに?」

思わず本音をこぼし聞き返したことがある。





「うーん、分かんない。何となくかな。」

何ともフワフワした答えだが、

成る程、ある意味真意を突いているなと

一人納得してしまった。




                    「何となく」

これ以上に力強い言葉を僕は知らない。
















適当な「大丈夫」、根拠の無い「大丈夫」

それ故に言葉に力を持つことがある。

理屈、理由が存在しないが為に

絶対的な肯定や安心を感じさせるのだ。





それは家族から受ける無償の愛に似ている。

親友との間に結ばれた友情を想起させる。

これらの中に理由や理屈は必要ない。

存在するは言葉に出来ない「何となく」





僕は人に自慢出来るものは何一つないが

友人にだけは恵まれている。

駄目人間かつ悪人である事は自覚してるが故

「どうして友人でいてくれるんだ?」

本当に怖かったが聞いてみたことがある。





「分かんない、何となく。友達でいるのに

   理由って必要?」

月並みな返答の様に聞こえるだろうが

この答えには随分と安心感を貰えた。





一度、理由や理屈を挙げつらねてしまえば

それに対する反証も同時に生まれくる。

一方、「何となく」この答えには反論を挟む

余地がない、論点が存在しないからだ。





一聴すると浅慮かつ適当なイメージを持つ。

なのに究極の答えにして絶対的な終着点。

我々が感じる安心はここからくる。

やはり愛を語る上で「何となく」は避けられない。




結論として、適当=愛と言えるのではないか?

もし、世界が純二師匠の様な人で溢れたら

今より平和な世の中になるだろう。

次のノーベル平和賞は是非、師匠に!





・・・やっぱ、なんか嫌だな。

師匠だらけの世の中じゃ、

五月蝿くてかなわん。










 



「残り2割は愛だよ、愛。」

最後まで適当な返しを貫き、呆れられる

時もある、いや、そっちの方が多いか。

はて僕の人生には残りの2割が見当たらぬが?









80点満点の人生を生きる男は今日も

8割の点数しか取れぬ文章に

120%の力と時間を費やしたとさ。

でも、無駄と言われても大丈夫なんです。





大丈夫なんです、大丈夫なんでしょうか?

沈みゆくお日様に尋ねるも答えは出ず。

80点の人生も悪くはないが、

何となく幸せになりたいと思った、夕暮れ。




 

 

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