Gone Tomorrow

 

 

 

 

 


明日を待ちわびなくなったのは
いつの頃からだろうか?
Brand new tomorrow の言葉と
縁遠くなって久しく感じる。

 

 

Tomrrowと言えば真っ先に浮かぶは
アニー師匠と岡本真夜先生。
どちらも明日への希望を声高らか、
前向きに唄っている。

 


「明日も下らない会議か・・
 会社行きたくないよ・・・・・・。」
そんな後ろ向きな明日への絶望を抱える
社畜の悲哀を歌う者がいてもいいのではないか?

 

 

何も上を向いて歩むだけが人生ではない。
下向きシンパシーにて傷を舐めあうことも
時には必要なんだ、必要と言ってくれ。

 

 

そんなこんなで相変わらず、
明日が来るのを少しでも遅らそうと
床に着くのを躊躇しウダウダと過ごす。

 


「アニーって結局どんな話なんだろう?」
「岡本先生の曲はTomorrowより
 Anniversaryの方が名曲だよな。」
かの様に無駄なことをつらつら考えつつ。

 


ところでAniversary、
記念日といえばプレゼントは欠かせない。
相手の喜ぶ顔が浮かぶとついつい気合を
いれて選んでしまう、その過程も楽しい。

 

 

「気を使わなくてもいいのに。」
そんなことを言われても、
大事に想う相手であればこそ、
贈る側も貰う側にとってもプレゼント
というものはより深い意味を持つようになる。

 


何故、人は大切に想う相手にプレゼントを
贈るのだろうか?
それはきっと、プレゼントを貰う喜びと
愛情の偏移とが似通った経緯であるが由だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


クリスマスの朝、枕元にはプレゼント。
煌びやかな包装にドキドキと心躍らせる。
包みを解き、望みの品が出てくれば
最上の喜びを感じる。
そしてお願いを叶えてくれたことに対し感謝。

 


年齢を重ねる事にプレゼントに対し
喜ぶタイミングやポイントも変化する。
子供のころはプレゼントを差し出された瞬間、
華やかな贈り物を受け取った時から。

 


やがて、望んだ品であるか、欲しい物であるか
その興味、喜びの対象は中身へと変わり、
さらに年を重ねれば、贈ってもらったという
その行為、そこに込められて気持ち自体を
喜ぶようになる。

 

 

愛情の偏移も似たようなものだ。
最初は外見に惹かれ、やがて人柄や中身を
重視するように、そして、最後には想ってくれた
気持ちに感謝や愛情を感じるようになっていく。

 

 

双方とも、外見、中身、概念へと
その喜びを見出す対象は推移していくものだ。

 

 

プレゼントの起源は相手への想いを伝える
一つの方法として始まったのだろう。

 

しかし、こうして考えてみると受け取った側は
プレゼントの何に対して嬉しく思ったかを考えれば
自分が送り主に対して
どの程度の愛情を抱いているのか
もしかしたら、ぼんやりと気が付くのかも知れない。

 


何にせよ、プレゼントという文化はいいものだ。
これからも大切に想う相手には心を込めて贈り、
受け取った際には自分が相手のことを
どう思っているのか、内省してみるとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、我が家ではプレゼントといえば
現金が主流になっている、しかも剥き出しで。
包みを解くドキドキ感もなく
中身も外見も同じ、そのまんま。

 

 

これはどんなメッセージなんだい?
人の上に人を作らず、対等な関係だよ、
そんな感じなのかい?

 

 

折り目のつかぬ福沢先生のプロマイドは
表情を変えることはなかった、そんな誕生日。
何故だろう、少しだけ涙が出てくる其の訳は?
これで少しは強くなれるかな?真夜姉さん。

 


さて、明日も早いことだから
そろそろ眠るとしますかね、
枕を少しだけ濡らしながら。
それでは、またトゥモロー!

 

 

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